2012年12月31日月曜日

弱者の政党


弱者の政党というものがある。

日本では共産党、公明党、旧社会党、社民党、そして民主党などがこれに当たる。

弱者の政党が勢力を拡大するとはどういうことか。それは弱者を増やすことに他ならない。

弱者は生かさず殺さず。豊かになってはいけない。経済的に自立させてはならない。弱者の拡大再生産こそ弱者の政党の最大の政策目標なのである。

これは致命的な自己矛盾ではないか。

例えば自民党は金持ちを増やすことが自党の勢力拡大につながる。国益と党益が同じ方向を向いているのだ。その意味で矛盾はない。みんなが豊かになればみんなが幸せになる。

しかし弱者の政党は違う。みんなが貧しくなることで弱者の政党は幸せになってしまうのだ。

弱者の政党の嫌らしいところは弱者を生産しているにもかかわらず彼らを保護することによってそのことを隠蔽してしまうことだ。

彼らの言っていることに注意深く耳を傾けてほしい。彼らは弱者を保護しろとはいうが弱者を減らせとは口が裂けてもいわない。弱者を減らしてしまえば自分を支持してくれる勢力も無くなってしまうからだ。

彼らは"自助”という言葉を蛇蝎のごとく嫌う。誰かに依存すること誰かに依存する人間を大量に作り出すこと、それこそが彼らの出番につながるからだ。自助の精神など彼らには一銭の得にもならない。

部落開放同盟の創始者である松本治一郎に有名なエピソード(出典不明)がある。

同盟の祝賀会場で挨拶に立ったある人物が「これからの益々の発展を願って・・・」と挨拶しようとするとそれを止めて、「解放同盟が益々発展するような事態になって困る。将来差別が無くなって解散して必要が無くなることこそが願いだ」と述べたという。

差別をなくすことが目的なのにいつのまにか組織を拡大することに目的がすりかわってしまう。はては組織を維持するために差別自体を作り出さなければならなくなる。手段であった組織拡大がいつのまにか目的となる。

弱者の政党も同じである。

生活保護受給者が200万人を突破したという。民主党は弱者の政党として確かにその”仲間”を増やしたのである。

2012年12月30日日曜日

放送法の不偏不党原則をはずせるのはいつか


放送法には不偏不党原則が盛り込まれている。

いわゆる放送法第3条の規定である「政治的公平、報道は事実を曲げない」、第4条第一項の「意見が対立している問題は出来るだけ多くの角度から論点を明らかにすること」の二つから構成されている。

これらが義務として規定されているのは放送局というものが国民の資産である電波を特権的かつ独占的に使用できる権利を国民から施されているからである。特に日本の場合電波使用料は格安であり、ほとんど払っていないといっても良い。

日本の主要なキー局というのはフジ・日本放送・テレビ朝日・TBS・テレビ東京の5つの在京キー局を指すが、これらは戦後すぐにGHQの指導の下、国有地などを払い下げられてできた少数の放送局である。

その後テレビ局は新規参入もなくそのキー局の下に系列化する形でローカル局がくっついている形になっている。

これら多数の零細なローカル局は番組を制作する力がないので在京キー局から番組を購入して放送している。そのため日本全体としては如何にローカル局の数が多くても放送報道の多様性という点ではキー局の5局に集約されてしまうのである。

このためこれらキー局の言論に与える影響は大きい。そして規模が大きいがゆえに政治や国民に与える影響はすさまじいものがある。偏向報道がなされると国民の合意形成に悪影響を及ぼしてしまう。

特に日本の場合、クロスオーナシップ制や電通のような独禁法違反の広告代理店の存在がその力を増強している。メディアの気に入らない政治家などは系列化されたテレビ・新聞・ラジオ・雑誌などから集中砲火をあびる。これではどんなに力のある政治家も太刀打ちできない。

それゆえに不偏不党の規制が掛けられているのである。逆に言えば規模も小さく影響力もなければ不偏不党の縛りなど必要がなくなる。

政治を左右できる力を持ったメディアが政治に介入したがるのは当然である。それを防ぐためには不偏不党原則に伴う罰則規定が必要だがメディアの力が強いので施行できない。

このようにいびつなマスコミの産業構造を作ってきたのは紛れもなく自民党である。自民党にとって電通を頂点とした情報のヒエラルキーは世論を効率的にコントロールするには都合が良かったのだろう。

しかしいまやその力をつけたメディアに牙をむかれ、叩きに叩かれて政権から追い出されるような事態を招いたわけだから根本的に発想を変えなければならない。

解決方法は電波オークションを導入して新規参入を促し、1局あたりの規模と影響力を小さくすることである。そうなれば不偏不党原則をはずすことができ、旗幟を鮮明にしたメディアが多数生まれてくるだろう。

競争相手が増えれば目立つためにエッジの効いた番組を作るようになるだろう。そうなれば視聴者も自分の好きなメディアを選択肢として選べるようになる。特定の政治勢力におもねった余計な自主規制もなくなっていくはずだ。

嫌でも5チャンネルからしか選べなかった放送局側主導の今までとは違って、チャンネル数が増えれば視聴者主導で支持を得た番組をつくる放送局が伸びていく。

ニコニコ動画のサムネを例にすれば理解しやすいと思うが、視聴者の選好を反映した動画を供給側がどんどん上げるようになっていく。そしてそれこそが結果としての政治的中立性つまり多数派を反映しているわけだ。そこに政府の介在する余地はない。

放送法の政治的中立性のアプリオリな定義にこだわっていると神学論争に陥りそれこそ既得権を守りたい既存メディアの思う壺である。

罰則規定によって偏向報道抑止するのではなく、偏向報道しても問題がない程度に規模を縮小させ言論の多様性を確保する状態に持っていくことこそがこれからの放送行政の未来のはずである。

不偏不党原則ははずそう。そのためには電波オークションによる新規参入をすすめて多チャンネル化することが前提条件になる。目指すは放送ビックバンだ。

2012年12月29日土曜日

日本の小選挙区制度が極端に振れるメカニズム

  

日本の小選挙区の振れ幅の激しい結果をみて小選挙区制度は大きく振れる制度だと簡単に決め付ける人が多い。しかしこれは間違いではないが世界の事例を見ると必ずしも正しくはない。

小選挙区制度の代表的採用国はアメリカだ。そのアメリカでは上院下院ともにあまり選挙結果が変動しないことで知られている。

アメリカでよく言われているのは現職が強いということである。なぜ現職候補が強いかといえば強い現職候補の挑戦者に強い候補者はなりたがらないからである。将来性ある魅力的な候補者も負けてしまえば何にもならないからである。

逆に言うと将来性ある強い候補者は弱い現職候補の選挙区から立候補したがるということになる

したがって強い候補者には弱い候補者が立つ。強い候補者とは現職である。だから現職は強いとなる。現職の強さと挑戦者の弱さは比例するのだ。

このためアメリカの小選挙区で現職と挑戦者が入れ替わる選挙区はもともと弱い現職候補がいる少数の選挙区だけということになる。

ではアメリカと違って日本はなぜふり幅が大きいのだろうか。日本の制度は小選挙区比例代表制である。ここに日本独自の特徴がある。

候補者のほとんどは小選挙区と比例区の重複立候補者である。したがって仮に小選挙区で落選したとしても比例区で復活当選という可能性が残されている。

その復活当選できるかどうかは候補者の比例順位は少数の政党を除いて一律同一順位なので比例復活は惜敗率によって決定される。ここが肝だ。

アメリカの制度ならライバルに負ければおしまいなので相手が強ければ強いほど諦めの度合いも強くなる。しかし日本の制度はがんばれば、惜敗率を高めればもしかすれば復活の可能性が出てくるのである。

強い候補者にとっても仮に小選挙区で負けることがあったとしても比例で復活できるいわゆる”保険”がついている状態であるから、多少なりとも選挙運動で手を抜いても当選できる可能性が残っていることになる。したがって力関係に差があればあるほど手を抜く度合いも大きくなるわけだ。

そのためライバルの力の格差が大きければ大きいほど次の選挙においてその差が縮まる度合いが大きくなる。

このことが意味するのはライバルの力関係は大きくは広がらず縮小する傾向にあるということである。そして両者の力が拮抗した選挙区が多くなるということである。

そういう状態でちょっとした風がどちらかの政党に吹くだけでも大きな議席を得る政党と大きく議席を減らす政党が出てくるのは直感的に理解できるだろう。そしてそれが死票数が多くなる原因にもなっている。

日本の小選挙区制度は急進的な二代政党制であり個人的にはあまりよくないと思っている。穏健的な二大政党制を目指すなら二人まで当選可能にすればよい。

とはいえ自分は日本の政治風土では二つの大きな政党に有権者の選好が収まるとは考えていないので3つの大きな政党に分かれるぐらいがいいと思う。

現在の状況でいうならば都市部の保守系である維新、都市部の革新系である民主、そして地方の保守である自民の3つである。

この場合当選者数を3人として有権者は2票を投じることができるとすれば良い。この場合比例並立しても選挙結果のブレは現在のものよりも影響は小さくなる。

2012年12月28日金曜日

なぜ金融政策に目がいかなかったのか


ようやく政府と日銀が金融緩和の方向に姿勢を変えだした。

だがそもそもバブル崩壊直後から日銀に対して強力な金融緩和を求める声は決して少なくなかった。金丸元自民党幹事長が「にんじんでも何でも日銀に買わせろ」といったのは正しい。

今回金融政策に大きな変化が見られたのは安倍総理自身が野党時代にしっかり勉強されたことが大きい。逆に言えば安倍さんが金融政策の重要性に気がつかなければ政策変更はなかったということである。これは恐ろしいことでもある。

なぜ過去20年間金融政策に目が行かず構造改革と財政政策に偏重してきたのだろうか、幾つか理由を挙げてみる。

まず高度成長期時代を享受してきた世代は「ものづくり日本」の成功体験が焼きついていることが上げられよう。文字通り戦後日本の高度成長は電気産業をはじめとする製造業の成功によって支えられ実現されてきた。

このためこの世代には「景気が悪いのは良い製品を生み出すことができないからだ」という方向にデフレの原因を見出そうとする。また「お金を刷って景気回復など邪道だ。経済はそんなものではない」などという風に金融政策に価値をおくことをよしとしない。

こういう風潮や思い込みが特にメディアの金融政策についての無理解につながったと思われる。現在でも金融緩和に懐疑的なマスコミ人は60代の人が目に付く。時代に追い越されてしまっているのにポジション的に編集部などにいるので性質が悪い。

次に自民党の体質にも原因がある。戦後のケインズ政策のもてはやされ方は政治家が財政出動を行う代わりに主に建設業従事者の票をもらうという行為を正当化した。自民党は「不況だから公共事業をうちますね」と不況を言い訳として政府支出の増大を行うことができたのである。

言い換えると不況が克服すべき課題ではなく公共事業を行うための免罪符として作用してしまった。ここに不幸の原因がある。

誤解してほしくないのは公共事業が悪だということを主張したいのではない。マクロ政策として財政政策を活用するのは当然の行いであり正しい政策なのだ。財政政策は特にインフラの整備と余剰労働者の有効活用につながる。

ただしそれが政治の世界になるとどうしても議員の利益誘導の正当化のために使われることも自然なのである。これが議員にとって金融政策に目が向かない一つの大きな要因になったことは事実であろう。

つまり議員は財政政策さえやっていればいずれ景気は上向くと考えがちになり金融政策については日銀の不作為を事実上放置黙認してしまうことになったのである。

さてそのような財政政策偏重の姿勢に対して当然異議申し立てがやってきた。それが構造改革路線である。

大きな政府では民間の活力は生み出すことはできない。民間の投資を引き出すためにも政府は支出を増やすのではなく減らしてその分減税などで民間投資を促そうという政策である。それには規制緩和が必要だというわけである。

ただしこの路線が有効であるためには政府の支出が民間投資を妨害しているというクレディットクランチの前提がなければ正当化できない政策である。

要はインフレ時の政策なのだ。しかし財政政策がうまくいかない期間が長く続いたので財政政策を見直しから自然と出てくる政策アイデアではある。

これは一見正しい政策のように見えるが考えてみると構造改革路線はマクロ政策ではなくミクロ政策である。

ミクロ政策は経済産業省などが不断の政策課題として産業ごとに適宜実行すべきもので本来は景気対策とは別物のはずである。

マクロ政策とミクロ政策は本来互いに反目しあう政策ではなく独立している間柄である。にもかかわらず日本では財政政策偏重のアンチテーゼとして構造改革路線が出てきてしまった。これが議論を混迷させた一因になったと思われる。

構造改革路線は非効率な分野を効率的にして生産性を上げる。生産性をあげるということは人員を減らして生産量を上げるということである。労働者が余剰な環境においてさらに人員を削減したらどうなるか、子供でもわかる論理のはずである。

構造改革路線はデフレの政策ではなくインフレ時の政策であることにもかかわらず財政政策のアンチテーゼとして出てきたのでその当然の疑問に対して聞く耳をもたれなかったのが第二の不幸であった。

以上金融政策に目が向かない主に3つの原因を挙げたがどうだろうか。

2012年12月27日木曜日

政治主導とは何か


民主党の政治主導は大失敗に終わった。最大の問題はそもそもの定義が不明確であったことだ。

おそらく民主党議員それぞれに政治主導を聞いても「議員が官僚の言いなりになるのではなく自分で判断すること」みたいな答えが返ってきただけだろう。はては官僚を怒鳴ることこそが政治主導と考えた御仁もいる。それはただのパワハラだろう。

政治主導というとどうしても内閣の閣僚についての議論になってしまうが、ほとんどの議員は立法府の人間であり政府には入らない。議員の仕事が立法にあるのであるからその場合の政治主導とはあくまでも立法の仕事に関することでなければならない。

そこを勘違いするから副大臣や政務次官など国会の仕事をホッポリ出してみんながみんな政府に入り込もうとしたり押し込もうとする。

立法府の人間が政府=行政に関わりすぎるのは大変危険である。特に日本の場合法案のほとんどは閣議決定されて政府が提出するものである。政府から提出された法案を国会で審議して国会議員の多数を得て法律となるのだ。

立法府の人間が多数行政に入り込めば立法府のチェック機能は働かなくなり事実上形骸化してしまう。国権の最高機関は国会であって政府ではない。

政治主導とは、本来立法を仕事とするはずの日本の国会議員が法案作成の能力を持たず行政機関に陳情・お願いして官僚に法律を作ってもらうという事実上のロビイストである現状を変えることにあるはずだ。

アメリカのように議員立法がほとんどであり廃案になったとしてもどんどん自分の名前のついた法律を提出し作成することが本来の「政治主導」のあり方のはずである。

ではそれをどうやって達成するか。

法律を作るためには法律に精通したプロがいなければ話にならない。そして法律を作るプロは行政機関の官僚である。したがってそのプロを議員の政策スタッフに充当することが必要になる。

日本の行政官僚は早ければ30代後半で肩たたきが始まる。年をとるにしたがって昇進するためのポストは少なくなる。したがって国はその官僚たちの就職の受け皿を用意しなければならない。

それが天下りである。自民党は専門職コースを用意したりできるだけ官僚を行政の外に出さないというやり方で天下りを少なくしようとしているが、それなら政治家の立法スタッフとしてのコースを用意してやればいいのではないだろうか。アメリカの政治家には立法スタッフが20人ぐらいついている。それぐらいいなければ法律は作れない。

日本の主要課題が政治主導行政改革なのであれば、肩たたき官僚にこのような"第二の人生”を用意してあげることは一石二鳥だとおもうがいかがだろうか。

国会議員は衆参で720人、一人につき3人つけたとしても2100人の雇用の受け皿になる。人件費が大変ではないかという批判が来そうだが、国の監視の届かないところで特殊法人を使って馬鹿みたいな高給や支出をされるよりよっぽどいいではないか。私は最低5人は必要だと思う。その人数が多すぎるなら議員の数を3割ほど削って代わりに政策スタッフを充実させてもよい。

政治主導とは「立法スタッフを行政機関から充当して議員立法の割合を例えば30%超にする」などと目標を定めれば定義もはっきりとしよう。