2013年1月2日水曜日

アメリカ銃規制に関わる日本言論のナンセンス


アメリカ東部コネティカット州の小学校での銃乱射事件によってまた全米で銃規制の論争が盛り上がっている。

そして毎度のことながら日本の銃規制に対する論調は銃を全面的に規制すべしというアメリカ民主党の立場からのNRA(全米ライフル協会)を非難する論調のみで語られている。

経済学には複数均衡という概念がある。個人がその均衡から離れて行動した場合不利益を蒙るときそれをナッシュ均衡と呼ぶ。

そしてそのナッシュ均衡が複数あるということだ。どういうことか。

日本のような銃が存在しない社会である場合個人は銃を持つことのメリットデメリットを考えよう。メリットはそれほど多くはない。相手が銃を持って発砲してくる確率は非常に小さいからだ。

デメリットは結構あるだろう。暴力団から入手するというのは色々コストが高いだろうし、警察に目を付けられ銃刀法違反で逮捕されたり、家に置いていると子供が遊んで暴発する危険もある。

したがって日本の場合個人にとっては銃を持つことのほうがデメリットがメリットを上回るのである。

アメリカではどうだろうか。犯罪率も高く、みんなが銃を所持している環境ではこちらも銃を所持しなければやられる可能性が高い。銃を所持することで抑止力も働くだろう。こういう環境では銃を持つことこそが個人にとって合理的な判断となるのである。

つまり双方置かれている環境において個人が取りうる行動には”どちらも”合理性があるということである。したがって複数の均衡が存在するということになる。

そのようなシステムは個人の合理的な判断を基礎としているために非常に強固である。だから日本の事例をだしてアメリカ人は不合理といっているのはそれこそ不合理なのだ。

日本人もアメリカに行けば銃を所持するかもしれないし実際そういう人は多いだろう。ソマリアなら絶対に所持するはずだ。

アメリカで銃をなくそうとすればそれなりに広範囲なエリアにわたって、銃を所持しないメリットがデメリットを上回るような、システムが転換するある"閾値”を突破するような強力な銃規制が必要だということになる。

そう秀吉が刀狩をやったように。

そうではなく中途半端に銃規制を強めても今までのようにほとんど意味はないだろう。

要は世界には銃がまったくないか、銃があふれているかの二つしか存在しえない。その中間はないのである。

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