2013年1月30日水曜日

社会学者が糞な理由


社会学ダメな理由

1.成長論がなく分配だけ

2.常に弱者の問題に矮小化する

3.アーキテクチャの変更を促す提案ができない

4.教科書がない(システマティックな方法論がないのでまちがってもだれも気にしない)

5.何を言っても結局一国平和主義

6.倫理やイデオロギーや価値観のはなしばかり

7.ぼくちんの"解釈"だけで"分析"がない

8.分析がないからソリュージョンがでてこない

9.専門知識がないのに社会という言葉でどこにでも口を出して混乱させる

10.欧米のえらい社会学者の名前をちりばめた論文を書くが支持しているのは福島みずほ

11.研究ほったらかしてメディアにでようとする

12.国家を目の仇にするくせに言っていることは大きな政府

13.争いの勝者は学問的業績の優劣ではなく悪口のうまいへたで決められる

14.すべては2元論

15.結論が感想

16.希望とか絶望とかいう言葉が好き

17.ツイッターレベルのつぶやきをふくらまして本にする能力だけはすごい

18.大きい話をしたがるが単に大雑把な話になっているだけ

19.データをもとに議論しないから検証未定の話が連関して検証不能になっている

2013年1月27日日曜日

金融緩和の理解には恒常的と一時的の区別が大事


金融緩和についていまだに本当にしょうもない悪意に満ちた批判が多いので、いちいち反論する。

金融緩和には中央銀行が誘導する恒常的なものと、その他さまざまな経済現象が引き起こす一時的なものとに分類できる。一時的ならデフレ脱出に意味はないが、恒常的なインフレなら効果があるといわれている。なぜ一時的ではダメで、恒常的な金融緩和なら消費や投資を喚起するのだろうか。

例えば日銀が恒常的な金融緩和を宣言して、「毎年」2%ずつインフレになるとしよう。つまり一年限りではなく、恒常的にインフレが続く状態を考える。そしてあなたは消費者としてそのことを良く知っているとする。あなたの所得が毎年100円で固定されているとすると、次の年はインフレ分を差し引いて98となる。次の年は98に0.98を掛けて・・・96.04と続いていく。

100→98→96.04→94.11→92.23→90.39・・・・・・・・

つまり恒常的に(毎年)インフレが続くと何もしないのに、どんどん自分の持っている所得、つまり円の価値がさがっていくのだ(あたりまえだが)。

この場合、消費者としてどう行動するのが合理的か。もちろん株や不動産や金などインフレになると価値が上昇していくものに円(紙幣)を換えていく。

なぜ株や不動産がインフレになると値上がりするのかというと、紙幣を刷れば紙幣の供給量が増えるが、株や不動産の供給量が増加するわけではないので、相対的に株や不動産の価値が貨幣に対して上がるからというのが一つ(というより刷った分紙幣の価値が下がる)。

もう一つはインフレになると消費者は円の一部を消費に回す。毎年インフレ分損するぐらいなら、今のうちに消費しておこうという合理的な判断である。したがって消費熱が高まるので企業業績がその分改善されて株価が上昇となる。企業も生産設備を増やし、そのための土地を取得するので、不動産価格上昇となるわけだ。

株価や不動産価格が上昇すれば、企業がもっている不動産の担保価値が高まり企業の資金コストは安くなるので、銀行や市場からお金を借りて、新規投資に回せるようになる。そうなれば人を新たに雇う。既存従業員の給与は上がり、新規に労働者を雇うので、その人たちの消費も上昇する。

つまりこういう流れだ。

金融緩和→期待インフレ上昇→株・不動産価格・消費意欲が上昇→資本コストダウン→新規投資上昇→雇用・賃金が上昇→期待インフレ上昇→株・不動産価格・消費意欲が上昇→資本コストダウン→・・・・・

これ以上簡単には説明できない(笑。

この金融緩和の経路をみればわかるが、金融緩和が即、賃金の上昇や雇用の改善に結びつくわけではない。しかし若干のタイムラグをはさんで、必ず雇用や所得を改善する。その経路の初期段階については皆さん既に株価の上昇を目撃しているわけだ。不動産価格、マンション販売件数なども序序に上昇していくだろうし、そのことは確認できるので問題ないわけだ。

もし消費者が金融緩和が恒常的ではなく一時的なものだと判断したとしよう。この場合所得が100→98になるだけでそこで止まってしまう。来年も再来年も金融緩和が続き、所得が目減りしていくという期待が働かないので、そこで金融緩和の経路が拡大再生産していかないのである。

円安で輸入品やエネルギー代金が高騰するというのも、それが"恒常的”であるなら期待インフレを上昇させるので景気に好ましく、一時的であるならば確かに家計をその分だけ苦しくさせる。

円安で輸入資源の価格が上昇すれば、その分国内物価に転嫁されるのでインフレ期待を上昇させるので望ましい。家計が圧迫されるというが、それは一時的な価格上昇は確かにそうだが、今回は恒常的な金融緩和から来る恒常的な価格上昇なので大変望ましい。

経済学のロジックを支えるのは経済活動を営む個人の「合理的な判断」を行うということ、そしてその判断は「政策を予測」しながら行われるということだ。そこが自然を対象とする物理学と違う点だ。

金融緩和反対派の主張を聞いていると、結局「期待インフレ」という変数を落として考えていることがよくわかる。

その人間だけが行う「期待」という変数を抜いた議論はもうたくさんだ。

2013年1月24日木曜日

自民党は日銀法改正を


自民党は日銀法改正についてどう考えているのはっきりしない。それが市場の疑心暗鬼を生んでいる。麻生財務大臣も甘利経産大臣も発言を聞いている限り、金融緩和のメカニズムについて深いところで理解しているとは思えない。

理解できているのは安倍総理ただ一人である。

自民党は半世紀以上政権政党の立場にいたため、立法化しないで裁量行政で済ませてしまうという悪い癖がある。政治家も自分たちの影響力を誇示したいのでルール化されることを嫌う。政治介入の余地を残すことで自分たちの政治力が生かされる余地を残す。

しかしこのようなやり方は自らを窮地の追い込む。なぜなら、官僚は自分たちに不利な要望を押し付ける政治家を取り除いてしまえば、自分たちの権益を守り続けられると考えるからだ。

したがってルール化しないで裁量に任すというのは、官僚の行政権限を不必要に拡大し、かつ官僚たちに不利な政治家を排除するインセンティブを官僚側に与えてしまう。

日銀法改正は決して政治家の要望を金融政策におしつけるためではなく、むしろ、というか本来は日銀側に政策手段の独立性を与えるものであり、政治家の不必要で裁量的な介入を防ぐためのものだ。

その意味では日銀官僚は本来改正を歓迎すべきはなしなのである。それを拒否するということは、要はできなかった時の責任を負いたくない、官僚的処世根性が出てしまっているということである。

官僚は法的根拠がなければ動かない。日銀法を改正しないということは、政治家は官僚のサボタージュを追及し是正する手段を失う。また金融緩和に積極的な総裁が誕生したとしても、その人物が金融緩和を正当化する政治的根拠を失うことにもなるのだ。

日銀法を改正しないまま、経済諮問会議で介入した場合、メディアに口先介入だと叩かれるだろうし、市場はその都度不必要に神経質にならざるを得ない。これは市場に非効率性を生み出す。

安倍総理は早期に日銀法改正を規定路線とし、その路線を支持する日銀総裁を任命すべきである。日銀総裁が決まったあとで日銀法改正を言い出して、万が一その総裁が反対に回った場合、話が大変ややこしくなる。

自民党は安倍カラーを封印して経済政策に全力を尽くすといっている。そのことに不満を感じる自民支持者も潜在的には多い。そのような状態で経済政策すら抜本的な対策を講じられないのであれば、安倍自民への期待が失望に変わるのは早晩明らかだ。

安部自民が長期政権になれるかどうかは、まさに日銀法改正がその試金石となろう。

市場は一時的ではなく恒常的な金融緩和を望んでいる。だとすれば法制化して日銀をルールに従わせるべきである。そのことが市場の不安を払拭する最善の方法である。

自民党はもはや半永久的に政権を担うという政党ではない。小選挙区制度を導入した以上選挙制度を変えない限り、政権交代は常に可能性として存在する。

政権が代わっても制度は残るし残す政治をしなければならない。自民党はそのことを考えながら立法化に勤しむべきである。

2013年1月22日火曜日

維新は大阪に臨時国会の誘致を


維新の一丁目一番地の大阪都構想は、いわば究極の行政改革である。が、同時に成長戦略でなければならない。維新が、大阪の地方政党から国民政党へもう一段の脱皮を謀るために、今必要なのは、国民や府民に坂の上の雲を見させる成長戦略である。

橋下大阪市長の頭の中には、おそらく国会の誘致、そしてその受け皿となる副都構想があるはずだ。その種の発言を既に何度もしている。

臨時国会を大阪で開くことができれば、その経済効果は計り知れないものになる。国会議員はもちろん、大量の官僚のみならずメディアなども引っ付いてやってくる。ホテル建設も相次ぐだろう。外国の領事館なども引っ付いてくる。まさに民族大移動である。

副都の候補地はやはり伊丹空港だ。空の便が減るのは痛いが、それをリニアで補う。どちらにしろリニアを開通させてしまえば、空で東京大阪間を移動する人は激減するはずなので問題にならない。

伊丹を廃港にしてその跡地に副都を建設する。跡地にリニアの駅と新幹線の駅をつくる。空の便は関西空港から南海とJRの乗り入れでOK。”豊中DC”(伊丹空港は豊中市にあるのだ)にして特別行政区に指定する。

行政施設も例えば、京都に宮内庁と観光庁を、奈良に文化庁を、びわこのある滋賀県に環境省を分散して置く。大阪と兵庫(神戸)以外の近畿の隣接都道府県もその恩恵にあずかれるわけで、大阪だけが潤う話ではない。近畿全域がハッピーになる。

大阪が衰退している理由の一つは、大阪に本社を置く企業が東京に出て行ってしまったことがあるが、国会を大阪で開くことが可能になるならば、大阪に本社を置いてもいいという企業も増えてくるはずだ。

また国会を大阪で開くとなると、天皇陛下も京都により長く御滞在することになるだろう。これは京都人にとっては喜ばしいことだし、歴史的に見て本来の日本のあり方でもある。陰に陽に日本によい影響を与えるはずだ。

費用がどれくらいかかるのかは、僕にはよくわからないしわかるわけないのだが、ベルリンの再開発計画などが参考になるはずだ。総予算はベルリンで大体1兆2000億円ぐらいらしい。2020年の東京オリンピックの費用は3000億程度だ。伊丹空港の土地は国有地なので費用は建設費のみである。

とはいえ国も、社会保障費や東北の復興や防衛予算の増額などで、幾ら予算があっても足らない状態ではある。大阪単体でどうにかやりくりできるか、そこが早期実現へのポイントになるはずだ。

財源の一つは副都建設による周辺地価が上昇するはずなので、固定資産税収入が上昇するはずだ。東京駅の再開発に使ったように、大阪市内の高速道路の空中権を売却してもよい。地下鉄の民営化などで幾らかの株売却益も確保できるだろう。

リニアやなんだと待っていたら30年はかかってしまう。そもそも有事における東京の代理機能としての都構想なのだから、急がないと地震が来てしまう。

とりあえず伊丹を廃港にして、ちゃちゃっと副都建設にはいろう。JR東海の収入が増えるはずなので、その分をリニア建設費に充当してもらえば、計画も加速するだろう。幸い維新はリニア構想に乗り気だ。

縮小均衡論はもうたくさん。天下の台所をもう一度復活させようよ、橋下さん。

2013年1月19日土曜日

Economist紙はなぜ構造改革しか言わないのか


イギリスの経済紙Economistが、まるで壊れたラジオのように、しつこく日本に構造改革を勧めてくる。この記事(日本経済:ケインズと鉄道と自動車)もご多分に漏れない。

正しいことを言っているのならば承るが、困ったことに、日本への現状認識と処方箋が完全に間違っている。

エコノミスト紙で日本関係の論評をしているのは、当たり前だが大体イギリス人だ。イギリス人が構造改革を勧めてくるのは、イギリス自身がそれによって成功した体験があるからだ。なにも日本に意地悪しようとして間違った処方箋を勧めているわけではない(と信じたい)。

イギリスの経済病はしつこいインフレと産業力の衰退であった。


イギリスのインフレーションは日本の比ではない。上の図をみてみると一目瞭然であるが、76年には24%近くに達しており、先進国としては相当なインフレ経済だった。このようなインフレ経済を作ったのは行き過ぎたケインズ政策の結果であった。総需要を拡大するために強い雇用規制、高い公務員給与と年金、産業における保護政策、公共事業の拡大などである。これが一般物価の上昇を招いた。

そこで登場してきたのが、構造改革路線としてのサッチャリズムである。教科書的な説明を言えば、「ゆりかごから墓場まで」という高福祉政策を見直し、規制でがんじがらめだった市場をより競争的にしようとした。

インフレだということは、国内需要が供給能力を上回っているということである。したがってサッチャリズムでは、公務員の高賃金を見直し、強すぎる労働組合を是正して賃金を抑え、外資の参入を促すことで競争環境を整備して、生産性を高めようとしたのである。

要は構造改革(サッチャリズム)という処方箋は、インフレに対処するためにだされたものだということである。この単純至極な真理がいつまでたっても浸透しない。特に日本のメディアには理解できない。

自分は構造改革は公平な競争環境、分配の正義の観点から、景気循環とは別に不断に行われるべきだと思っている。しかし首を傾げざるを得ないのは、景気対策としての構造改革を主張する人たちが多いことである。

外資を呼び込みたいなら金融緩和でよい。日本は長い間デフレなので十分な緩和余地がある。イギリスが金融緩和できなかったのは、説明してきたようにすでにインフレだったからだ。体質や病状が違うのに、同じ処方箋を勧めるのは、単なる藪医者である。

肥満(インフレ)には構造改革(運動)を、栄養失調(デフレ)には点滴(金融緩和)を。逆の組み合わせをすれば、患者は死んでしまう。

また構造改革論者は、農業や建設業については言及するが、日本でおそらく最も保護されている業界であろう、メディア業界に対する言及がないのも不可解だ。構造改革を連呼する日本のメディア業界こそ、規制緩和・新規参入を必要としているはずなのに。

私は構造改革論「だけ」を主張する人に尋ねたい。日本と中国、どちらが経済的自由度、私的財産の保護、官僚腐敗、汚職、株式市場の透明性、法の支配、著作権保護の点で優れていますか?と。

アメリカはともかくとして、日本が中国に市場環境で劣っていると考えている人間はあまりいないだろう。最近でも領土問題が発起したからといって、当該国の企業を焼き討ちにするような国である。にもかかわらず中国は成長して、日本は低成長に甘んじている。その事実だけでも、構造改革論者のいう構造改善→成長という因果関係が、少なくとも短期的には疑わしいものだと言えるのではないか。

成長はむしろ七難を隠すものだ。中国には日本では考えられないような社会不正義が行われている。にもかかわらず、まがりなりにも国家として成立しているのは、経済が成長しているからである。日本は低成長なので、逆にちょっとした欠点が目立ってしまう。そういう状態にある。

クルーグマンがアメリカがギリシャでないと言うように、日本はイギリスでも中国でもない。というわけでエコノミストさん、いい加減もう少し勉強しようぜ。

2013年1月17日木曜日

NATO化するASEAN


ASEAN、いわゆる東南アジア諸国連合は、1967年タイのバンコク宣言で結成された経済連合であり、安全保障についての連合ではない。しかしEUをみてもわかるように、諸国連合がそれなりの力を発揮するためには経済連合だけでは不安定である。EUには安全保障連合であるNATO(北大西洋条約機構)がある。

案の定、ASEANは領土問題に関する対中国の対応で割れた。ベトナム・フィリピンが南シナ海について強硬な対中路線をとろうとしたのに対して、カンボジアがそれに待ったをかけ、インドネシアが仲介に乗り出したという構図だ。

そのASEANに対して、安倍政権は成立してまもなく安倍首相だけでな、く岸田外務大臣や麻生財務大臣をASEAN各国に派遣している。

今回安倍内閣が歴訪する東南アジア諸国を列挙すると、インド・インドネシア・オーストラリア・シンガポール・ブルネイ・ミャンマー・ベトナム・フィリピン・タイの総勢9カ国となる。すべて長大な海岸線を持つ海洋国家である。

これをみると、ものの見事にカンボジアが外れていることがわかるだろう。なぜカンボジアが外れているかといえば、冒頭でのASEANでの振る舞いだけではなく、地政学的立場が影響している。カンボジアは東西をタイとベトナムに挟まれ、北はラオスと国境を接している。南側がすこし海に接しているだけで要は内陸国なのだ。

ASEANは全会一致で決定されるので、政策合意に時間がかかる。安全保障上の連携にすべてのASEAN諸国が参加する必要はない。上記のような中国の脅威を真剣に捉えている国々と先行してすすめることが大事だ。

まずやるのは海上警備隊の整備である。東南アジアの警備隊は貧弱である。装備も訓練も人員も足りない。にもかかわらずそれなりの安全性が保たれているように見えるのは、アメリカやオーストラリアが代わりに海上警備行動を行っているからである。

なぜこのような政策が有効なのか。中国はその経済成長の源であるエネルギーを中東の石油資源に頼っている。経済成長が続くにつれその依存度は益々高まることになる。したがって中国は経済活動においても、軍事行動においても、中東からの石油にすべてを依存していくことになる。

その際中東から中国までのシーレーンをこれらの国々は押さえることになる。中国からの圧力に面した場合は、海洋諸国で連携してシーレーンを封じることで、戦争を抑止することが可能になる。

そして大事なことはこの封鎖力こそ、単独では中国に対抗できないASEAN諸国であっても、外交的に中国をけん制できる大きな抑止力の担保となるのである。そのためには、安全保障においても、ASEAN諸国は緊密に連携しなければならない。

日本は戦前朝鮮半島に進出することによって、拡張する国境線への多大な軍事負担に苦しんだ。地政学は海洋国家は大陸国家を兼ねることはできないと教えている。その教訓は海洋国家としての日本の立場を、もう一度確認し強化することである。

安倍政権は麻生政権の時に提案した"自由と繁栄の弧”(環ユーラシア海洋連合?)通りに外交を展開しようとしている。戦後において最も主体的かつ責任ある外交といえる。すなわち日本はASEANのNATO化のハブ(結節点)になろうとしているのだ。

2013年1月16日水曜日

体罰を生み出すもの


高校の部活に汗と涙と体罰はつきものである。テレビはそれを美しく描くし、生徒もそれを愛のムチだと一生懸命思い込もうとする。じゃないとやってられない。

しかし、冷静に考えれば、”たかが”部活で体罰の必要があるのか。これは先進国ではかなり特異な慣習だろう。世界の学生スポーツにおいて、熱狂度で日本の高校野球が誇る甲子園に匹敵するのは、アメリカのカレッジフットボール(大学アメフト)だろうが、だからといって一回試合に負けたからといって、アメリカ人選手は泣かないだろうし、コーチも殴ったりしない。なぜだろう。

カレッジフットボールにあって、高校野球にないものは、地方予選に当たるリーグ戦、つまり総当たり戦である。アメフトには地方ごとにリーグ戦があり、その成績上位のチームが本選、つまり全国大会に出場する。これが日米人気のある学生スポーツにおいて、根本的な違いを生んでいる。

高校の全国大会は、スポーツジャンル問わず、ほとんどすべて地方予選からはじまり、全国大会の決勝で終わる、長い長いトーナメント方式で行われる。たった一人のチャンピオンを生み出すために、その他全員の敗者を生み出さなければならない。トーナメントは負けたら終わりの勝ち抜き戦である。勝者は次の試合への参加権を取得できるが、敗者はそこで終了である。

リーグ戦では総当りの結果、勝ち数が多い順にチーム順位が並んでいくわけで、負けても次の試合が無くなるなんてことはない。

負けたら終わり、これはものすごいプレッシャーである。負けた時点で勝つことも負けることさえもできなくなる。このプレッシャーは当然、指導者にも圧し掛かってくる。名門校や強豪校の指導者ならなおさらだろう。そのプレッシャーが指導者に体罰を正当化させ、バスケットボール選手の自殺まで引き起こした遠因となった。

そしてこのような大会形式は、当然指導者の指導内容に影響を及ぼしてくる。もし高校野球がプロ野球と同様にリーグ戦であったなら、コーチは選手のローテーションに気を配るはずだ。そのことはつまり、選手の体調管理を目の前の試合のためではなく、リーグシーズンを通して気を配ることになるということだ。

有力選手を目の前の試合に勝たせるためだけにぶん殴ったり、連投させたり、酷使する必要はない。むしろその時々の調子のいい選手を使うようになるだろう。つまりそれこそがローテーションなわけだ。せっかくの逸材を、高校野球で酷使して肩をだめにして、使い捨てにする現状はあまりにも残酷である。

またローテーションは、所属選手の有効活用につながる。実力が少々足りないからといって、万年補欠扱いするのではなく、リーグ戦なのだから弱いチームと当たる場合は、補欠選手を優先的に試合に出してやって経験を積ませることが可能になる。そしてその分レギュラー陣を休ませることができる。これなどは、オシムやセルジオ・越後などの知日派外国人が常々言っていることである。

今のトーナメント方式だと、世間が注目する全国大会に出られる可能性のある一握りの名門校に、優秀な選手が集中してしまう。これに対してリーグ戦ならば、負けても試合が廻ってくる。露出のチャンスも増える。したがって越境留学の問題なども解消されるだろう。選手の”地産地消”が実現するというわけだ。

というわけでいいこと尽くめのはずだが、なかなか実現しない。それを改善できるのは文部省しかない。また橋下市長もそこまで視野を広げて問題に対処してほしいと思う。
 

2013年1月15日火曜日

動き出した日本(Japan Steps Out by Paul Krugman)


ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマン氏がアベノミクスを評価した記事が1月14日のNYTに掲載されたので翻訳して紹介しよう。原題は"Japan Steps Out"である。


動き出した日本

失業率が高止まりしているのに、世界の先進国の経済政策はまちがった原則論を信奉して何年も麻痺している状態だった。雇用を作り出そうとする試みはすべて、極端な結論を持ち出されては停止させられてきた。財政支出を増やそうとすると国債が暴落する!とか、紙幣を刷ろうとするとインフレーションが爆発する!とか、極端な悲観論者たちが騒ぎ立てる。何をしても結果などでないのだから何もするな、というわけだ。ただ今までのような厳しい耐久生活に耐えよ、というわけだ。

しかしある一つの経済大国が、つまりは他でもない日本が、この状態を打破しようと動き出したように見える。

これは我々が捜し求めていたような異端者ではない。日本の政府は何度も政権交代を繰り返したけど、何かが変わるようなことはなかったように思う。新しい首相となった安倍晋三氏、彼は一度政権を担った人物だけど、彼の復帰は何年も経済運営を間違ってきた自民党とともに、”恐竜”の復帰を予感させたんだ。その上、日本は人口と比較して巨大な政府債務を抱えているため、他の先進国と比較しても、新しい政策を試す余地がさらに限られているとみられていた。

だけど安倍首相は日本の長い不況を終わらせるという公約を掲げて、既に不況原理主義者が言う様な政策とは違った新しい政策に着々と挑んでいるように見える。そしてその最初の試みは上々のようだ。

日本の今までの背景を少し紹介すると、2008年の金融危機よりはるか前から日本は不況に苦しんできた。株価の崩落と不動産バブルの破裂を受けて日本が不況に陥った時にも、日本の政策は常に過小で、遅すぎ、そして一貫性を欠いてきた。
 
確かに、日本は大規模な財政支出を行ってきたんだけど、財政赤字を気にするあまり引き締めに転じて、何度も確かな回復の目を摘んできてしまった。そして90年代の終わりには既にやっかいなデフレーションが根付いてしまった。2000年に入ってから日本の中央銀行である日銀はお金を刷ることによってデフレと戦おうと努力した。だけどすぐにまた引き締めに転じて、デフレが消え去る機会を葬り去ってしまった。

とはいうものの、日本は2008年から我々が受けたような高失業率や災禍を経験することはなかったんだ。僕らが最初に提言した政策は本当にまちがってたので、日本の政策を厳しく批判してきたアメリカのエコノミストたちは、これにはFRB議長のベン・バーナンケや僕も含まれるんだけど、東京を訪れた際、天皇陛下に詫びようとさえ言ったんだ。

これは日本の経験からもう一つの教訓を教えてくれている。長く続いた不況からの脱出が難しいってのは確かなんだけど、それは主に政策遂行者に、果敢な政策を採らせることが難しいことから生じているってことなんだ。つまり問題の本質は、経済的な問題というよりも政治上・知性上の問題だということなんだ。実際のところ、積極政策のリスクは、悲観論者が君たちに信じ込ませたいリスクよりも、ずいぶんと小さいものなんだよ。

巷間言われている政府債務や赤字の問題について考えてみよう。ここアメリカでは我々はいつも財政赤字を減らさなければならない、さもないとギリシャみたいになる、と警告している。しかしギリシャ、それは通貨なき国家、はアメリカとは似ても似つかない国だよ。アメリカは日本のほうによっぽど似ている。悲観論者は破滅の兆候として、長期金利の度々の上昇を挙げながら財政破綻の可能性を論じ続けるんだけど、いつまでたってもその日は来ない。日本政府は依然として1%未満の金利で長期国債を発行することができるってのに。

そして安倍首相だ。首相はより高い物価を目指すように日銀に圧力をかけながら、それによって政府債務の一部を償却しようとして、同時に積極的な財政政策を行うことを高らかに宣言した。で、それにたいしてマーケットはどう反応したか?

答えはあらゆる反応が良好だといえるだろう。長いことマイナスであった期待インフレ率が、つまりマーケットはこのデフレが長いこと続くと予想していたんだけど、その期待インフレ率が勢いよくプラスのレベルに入ってきている。にもかかわらず政府債務の金利はまったく変化しているようには見えない。これは、まずまずのインフレが続いていけば、日本の財政事情が急速に改善していくことを予見してくれているんだ。円の為替レートも下がり続け、これは本当にいいニュースだ、輸出状況も大幅に改善していくことだろう。

要するに、安倍氏はすばらしい結果を出して原理主義者たちの鼻をあかしたんだ。

安倍首相は、外交においてそんなに”良心的”な政治家ではないよ、と僕に忠告してくれる日本の政治に幾らか詳しい人がいて、そんな人たちは、彼は利益誘導型の古いタイプの政治家に過ぎないというんだ。

だけどそれがなんだっていうんだろう。彼の意図がどこにあろうと、彼が今やっていることは原理主義を打破しているということなのだ。彼が成功した暁には、何かすばらしいことが起こったことを意味するだろう。つまりそれは世界の他の国々に対して、どうやって不況から脱出するのかを教えてくれているわけだ。

2013年1月12日土曜日

いじめ対策は難しくない


いじめ問題が紙面をにぎわせている。

なぜいじめが起きるのか。さかなくんが真理をぴたりと言い当ててるので一部を引用しよう。http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html

”広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。”

短い文にいじめに関するすべての要素が含まれている。三流の教育学者には到底到達できない本質を直感的に探り当てている。閉鎖された空間だといじめというものが個人の意思とは関係なく起こる、ということだ。

いじめは閉鎖された空間、つまりは逃げ場がない中で、恒常的に人間関係が固定化し、生徒間に大きな力の格差が存在した場合発生する。

   ・閉鎖された空間
   ・恒常的な人間関係
   ・力関係の格差

閉鎖された空間では外部の目が届きにくい。警察もはいってこない。自治といえば聞こえはいいがようするに無法地帯か私法が支配する世界だ。このような環境ではいじめは当然ながら発生しやすくなる。

恒常的な人間関係も子供たちにストレスを与える。大阪市の市立高校の問題では教師による体罰、つまり生徒に対するいじめだが、この教師は18年間もバスケットボールの顧問を担当していたらしい。恒常的な人間関係は力関係を増幅させ、いじめられる側に反撃したり逃げるチャンスを奪い力関係が固定化する。

というわけでいじめが発生する原因はわかった。ならば解決方法は簡単だ。閉じられた空間を開放して人間関係を流動化させてやればよい。では具体的にはどうすべきか。

予備校や塾、そして大学を考えてみてほしい。いじめもあることはあるだろうが、それは例えば大学の運動系サークルだとか局所的なもので、せいぜい新歓コンパで無理やり酒を飲まされたとかそのレベルのものが多い。予備校や塾でいじめが発生したという話はほとんど聞かない。なぜだろうか?

予備校や塾や大学の特徴は一言で言えば、クラス制ではなく講座制もしくは単位制だということだ。クラスのメンバーを固定してそのメンバーで同じカリキュラムをこなしていくというのがクラス制だとすれば、講座制は学生個人が思い思いの自分にあった授業を選択して単位をとっていく制度である。

クラス制は何をするにしてもクラスメートと一緒だ。体育も遠足も授業も。これでは子供たちにとって少しでも交友関係が悪くなることは非常なストレスになる。そのはけ口がいじめに向かう。いじめいじめられる関係に入らない第三者もその関係に巻き込まれることを怖れて傍観者になる。クラス制は上に挙げたいじめの三要素をすべて持ってしまっている。

これに対して講座制は個人個人が自分の選択によって受けるべき授業を選択する。先生はクラスの担任ではなく生徒個人個人のメンターやカウンセラーとして生徒を保護し導く役目を負う(こちらのほうが生徒と先生の距離を近づけるのではないだろうか)。講座制はクラス単位で動かないので授業時のメンバーも自然と一時的なものになる。

現在考えられているいじめ対策はすべて、今までどおりのクラス制を前提にした対策である。少人数クラスにしたりして先生の監視を強化するとかだ。しかしそれでは抜本的ないじめ対策にはなりえない。先生の監視をすりぬけてやるのがいじめだからだ。

いじめ対策の本質は驚くほど簡単だ。それは人間関係に流動性を与えることだ。具体的にはクラス制から講座制への移行である。生徒間だけでなく教師を含めた学校内の人間関係の流動性を高めることが大事だ。特別区をつくりまず単一校内で実験を。

そして結果が出れば、市内の市立校をナンバースクール化して生徒間の移動をある程度緩和させる。そのためには公立高校間のカリキュラムの標準化を進めて、単位の移動が可能な体制にしなければならない。これができるのは学校間の情報公開を進めている大阪の維新しかない。

こうすればいじめられている生徒もすぐに他の校区へ転出できる。そして転校に伴う学業上のストレスや転校先での人間関係構築のコストも発生しない。河合塾の梅田校から神戸校に移動するようなものだ。

予備校がやれて学校ができないわけがない。中学への導入が拙速すぎるなら、まず高校からでもやってみてはどうか。講座制は学生自身に自分のキャリア選択を真剣に考えさせる機会にもなる。

というわけでたのんます橋下さん。

2013年1月10日木曜日

フジテレビがダメになった理由


フジテレビがもがき苦しんでいる。7年連続の視聴率三冠王から一転してテレビ朝日にも抜かれて3位に転落した。

なぜフジテレビが視聴率を落としているのか。韓流偏向に大きな原因があると考える声が多いが、それだけではない。

もちろん韓国というやっかいな隣国のコンテンツに対して拒否感を示した視聴者が多かったことも直接的な要因になったと思われるが、おそらくそれだけではない。

フジテレビは韓流といわれるドラマや音楽の販売権を獲得して自社所有コンテンツとし、番組内でそのコンテンツについて全社あげてのステルスマーケティングをおこなった。

このステマこそが視聴率を中長期的に低下させている原因であると考える。

どういうことかというと、番組内で自社保有のコンテンツを広告と表示させないで、つまりステマをして紹介した場合、視聴率が多少落ちたとしても、テレビ局はそのコンテンツ(CDやらチケットやら)の販売収入によって大きな利益を得られる可能性が出てくる。つまり放送外収入によって放送内収入を補填する以上に儲けることが可能になるわけだ。

これはテレビ局のとって一見良いことづくめのように思える。しかしこのようなビジネスモデルはテレビ局の収益を大きく毀損する問題をはらんでいる。

まずこのようなモデルは番組のスポンサーを軽視する意識をテレビマンに生み出すということである。テレビ局からすれば番組内で自社コンテンツを宣伝して放送外収入で補填できるのであれば、視聴率至上主義を取る必要はなくなる。多少視聴率が下がっても”おつり”が来るからだ。

このためテレビ局は視聴率を取れる番組ではなく、自社コンテンツに沿った番組をつくりがちになる。しかしそれでは視聴率は当然のごとく落ちてくる。

またこのような考えはスポンサーからすれば誠にふざけた話である。スポンサーはテレビ局のコンテンツ売るためにスポンサー料を払わされた挙句、テレビ局が視聴率を上げるための努力をしないわけだから。まるでスポンサーが下僕でテレビ局がご主人さまだ。

これでは短期的にはともかく長期的にはスポンサー離れを生み出すだろう。なんでフジテレビのコンテンツの宣伝費を自分たちが出さなければならないのか、という当然の反応がでてくるからだ。

さらに副次の効果として現場の士気の低下を引き起こすはずだ。テレビマンといえば、それが良いことかどうかは別として「視聴率がすべて」の価値観だったはずだ。

それがそうでなくても良いとなった場合のテレビマンのマインドを考えたら明らかだろう。売り上げがすべての営業マンが営業成績で順位づけられなくなった場合どうなるか。

フジの不調を番組制作能力や世間のニーズを読み取る能力の低下に求める声が大きいが、それにはこのようなまちがったビジネスモデルから来る社内の"弛緩した”雰囲気が影響していると思う。

ステマは欧米では法律で禁止されている。国民の資産である電波を特別に供与されているという意識が抜けて、自社の利益追求だけに暴走すれば、大きなしっぺ返しを受ける。因果応報である。

2013年1月7日月曜日

東北諸藩は二度負けた


日英同盟とはすなわち明治政府を作った薩長政府と英国との同盟すなわち薩長・英同盟であった。日英同盟を締結した当時の内閣は桂太郎内閣であった。その内閣の出身(本籍)を見てみよう。

首相:桂太郎(山口県)
外務:小村寿太郎(宮崎県)
内務:内海忠勝(山口県)
大蔵:曽根荒助(山口県)
陸軍:児島源太郎(山口県)
海軍:山本権兵衛(鹿児島県)
司法:清浦圭吾(熊本県)

まあ見事なまでに長州閥内閣というか九州+山口政府なわけだが、薩長とイギリスは一度戦った中でその後イギリスの支援を受けて明治維新を成し遂げたわけだ。その”余韻”が日英同盟の締結に寄与したことは間違いない。

長州は大内氏のもと明との貿易で稼いだ実績を持つし、薩摩藩は琉球を間接支配して長州と同様に明との貿易で稼いだ実績をもつ。両藩ともに交易によって海外への視点と下地を確保できていたのだろう。これが同じ海洋国家イギリスとの関係を厚くした。

次に日独伊三国協商を締結した第二次近衛内閣を見てみよう。

首相:近衛文麿(京都府)
外務:松岡洋祐(山口県)
陸軍:東条英機(岩手県)
海軍:吉田善吾(佐賀県)
内務:安井英二(東京都)
大蔵:河田烈(東京都)
司法:風見章(茨城県)

内閣の重心が桂内閣から近衛内閣まで明らかに西から東へと移動していることがわかる。内閣だけではない、満州国や関東軍と東北出身者との関係も深い。

関東軍の幹部である板垣征四郎は岩手県、石原莞爾は庄内町は山形県、海軍の山本五十六も山形県出身だった。日独伊三国協商を強烈に支持したのは板垣征四郎である。

満州鉄道初代総裁の後藤新平は岩手県出身であるし、満州映画協会理事長の甘粕正彦は宮城県出身であった。

今年の大河ドラマは会津若松が舞台である。その会津藩庄内藩が戊辰戦争の最中にプロイセン(ドイツ)に対して蝦夷地=北海道を譲渡する代わりに最新鋭の武器を売却してくれるようお願いしたという資料が昨年発見されたとNHKで放送された。

このときはプロイセンが同意しなかったため成立しなかったが、半世紀の時を経て東北とドイツの連合が成立したわけだ。つまり日独同盟とは東北・独同盟だったわけだ。

薩長とイギリス、東北とドイツ、この組み合わせが時代を超えて国際的な連携につながったというのは興味深い話である。しかし一方は大成功し、一方は国を破滅に追いやったという事実は重く受け止めなければならない。

これをもって日本の統治権力は西に重心が傾いているときはうまくいき東にいくほど悪くなる、というのは言いすぎだろうか。

賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。

そういえば小沢一郎は岩手、鳩山由紀夫は北海道だった。安倍晋三はもちろん山口出身である。

2013年1月6日日曜日

検察制度改革は起訴便宜主義から


検察の不祥事が相次いでその信用が失墜しつつあり、東京地検特捜部もその機能を停止するような事態にまでなっている。

検察官の暴走を招いたものは何だったのか。自分はそれを起訴便宜主義にあると考える。

起訴便宜主義とは何か。刑事訴訟法248条によれば、検察官が必要しないときは公訴を提起しないことができる、と定められている。つまり検察には起訴に関する幅広い裁量権が認められており、容疑者の年齢や性格、罪状や情状を考慮して起訴を猶予する権限が認められているということである。そして各国と比較してかなり徹底されているといわれている。

日本の場合起訴便宜主義と有罪率99%の組み合わせが、裁判を形骸化している。裁判の真実性をめぐる責任が裁判官側ではなく検察官側に、プレッシャーがかかってしまっている。

なぜなら、検察官が自分が起訴した事件は、絶対に有罪に持ち込むことができなければ、自分の評価に大きな傷がつくと考えるようになるだろう。

厚生労働省の村木さんに関わる事件のように、政治家や官僚にまで捜査が及び世間が注目する事件ではなおさらである。そのため、何が何でも起訴したからには有罪に持ち込まないと考えて、無理をする羽目になる。

起訴便宜主義が明文化されたのは、公訴の乱用を抑えるためというのが一つの理由であるが、しかし検察審査会制度ができて、検察が起訴しなかった案件についても再度起訴できる仕組みができた以上、その意味合いは薄れてきているのではないか。

そもそも起訴決定主義であれば検察審査会の存在もいらなくなる。屋上屋を重ねる制度を生み出した原因もこの制度にある。

また、このような制度は検察への政治の介入を招く余地を残してしまう。中国人船長の那覇地検の不起訴はそのような事例をまざまざと示した。

しかし、検察制度を見直す審議会でもこのような提案がなされなかったというのは驚きである。

小室直樹は田中角栄のロッキード事件の起訴を厳しく批判し、これは検察ファッショであり日本はいまだ近代国家にあらずと指弾した。テレビで検察を撃ち殺せと叫んで出入り禁止になった。

国策捜査を招くような検察のあり方を是正する方法は、取り調べの可視化などではなく、起訴便宜主義から決定主義への改正である。

2013年1月2日水曜日

アメリカ銃規制に関わる日本言論のナンセンス


アメリカ東部コネティカット州の小学校での銃乱射事件によってまた全米で銃規制の論争が盛り上がっている。

そして毎度のことながら日本の銃規制に対する論調は銃を全面的に規制すべしというアメリカ民主党の立場からのNRA(全米ライフル協会)を非難する論調のみで語られている。

経済学には複数均衡という概念がある。個人がその均衡から離れて行動した場合不利益を蒙るときそれをナッシュ均衡と呼ぶ。

そしてそのナッシュ均衡が複数あるということだ。どういうことか。

日本のような銃が存在しない社会である場合個人は銃を持つことのメリットデメリットを考えよう。メリットはそれほど多くはない。相手が銃を持って発砲してくる確率は非常に小さいからだ。

デメリットは結構あるだろう。暴力団から入手するというのは色々コストが高いだろうし、警察に目を付けられ銃刀法違反で逮捕されたり、家に置いていると子供が遊んで暴発する危険もある。

したがって日本の場合個人にとっては銃を持つことのほうがデメリットがメリットを上回るのである。

アメリカではどうだろうか。犯罪率も高く、みんなが銃を所持している環境ではこちらも銃を所持しなければやられる可能性が高い。銃を所持することで抑止力も働くだろう。こういう環境では銃を持つことこそが個人にとって合理的な判断となるのである。

つまり双方置かれている環境において個人が取りうる行動には”どちらも”合理性があるということである。したがって複数の均衡が存在するということになる。

そのようなシステムは個人の合理的な判断を基礎としているために非常に強固である。だから日本の事例をだしてアメリカ人は不合理といっているのはそれこそ不合理なのだ。

日本人もアメリカに行けば銃を所持するかもしれないし実際そういう人は多いだろう。ソマリアなら絶対に所持するはずだ。

アメリカで銃をなくそうとすればそれなりに広範囲なエリアにわたって、銃を所持しないメリットがデメリットを上回るような、システムが転換するある"閾値”を突破するような強力な銃規制が必要だということになる。

そう秀吉が刀狩をやったように。

そうではなく中途半端に銃規制を強めても今までのようにほとんど意味はないだろう。

要は世界には銃がまったくないか、銃があふれているかの二つしか存在しえない。その中間はないのである。

2013年1月1日火曜日

橋下徹は原敬である


橋下徹大阪市長について幾ばくかの人物評論が書かれている。が、どれもゴシップの域をでていない。出自に関わるさもしいものが多く、評論とはとてもいえないレベルのものばかりだ。

橋下徹とは一体何者なのか。彼はそんなに複雑な人間ではない。ここでは原敬という戦前の政治家を補助線として紹介したい。政策において彼ほど橋下のやろうとしていることと一致している人物はいないからだ。

まず橋下といえば大坂都構想であるが、これは府と市の二重行政の非効率性を解消するために企画されたものである。そして原敬も長年の懸案であり、当時府県と町村の間にあった行政単位である郡を廃止している。行政上の非効率性の温床となっていたためである。

また市長はいわゆるブレーンを多数配置することで知られているが、原敬も高級官僚の自由任官制についての規制を緩和している。
 
橋下は小選挙区制における大政党による強力な政治を評価しているが、原敬も選挙法を改正して小選挙区制を導入した後、選挙で大勝を収めている。

原敬は平民宰相といわれたが普通選挙の実施には反対した。これは彼が労働組合の台頭を怖れたからである。労組嫌いの橋下と共通しているだろう。

平民宰相といわれ、当時の薩長藩閥政治支配の政界にあって、彼の平民出自は庶民にとって逆に大きなアピールポイントになった。橋下も必ずしも恵まれた出自ではなかったものの国民の人気を得て政界の風雲児になるまで上り詰めた。

橋下は一方で右翼的といわれるが明らかに違うはずだ。彼は単純に経済合理性で説明できない既得権益やタブー視されているものが生理的に許せないだけなのだ。彼が右翼的にみえるのは戦後の既得権というものがサヨクによって独占されていたことを示しているだけである。

彼は自他共に認めるケンカ好きでケンカに強い。ケンカに強いのは勝てる相手としかケンカしないからだ。原敬もそこがうまかった。反政党政治の元老である山県有朋を正面から敵にしようとはせずむしろ懐柔した。橋下も注意深く誰を敵にしないかを見定めている。

そんな原敬も東京駅で刺殺された。

個人的には原敬について、彼が暗殺されなければ日本は英米との戦争に挑むこともなかったのではないかというぐらい評価している。

ここだけは真似されないよう祈っている。